「あんたは出掛ける度に何処へ行ってしまったのかさっぱりわからない」

小学校に入った頃、自転車に乗れるようになった。

それまでの補助車付きと違って、突然世界が広がったようで…

自転車の練習用にと、たしか20inタイヤがついたボロッボロの自転車を手に入れてきた父。メカニズム的には実用車をそのまま小型化したような構造デザインで、お世辞にもかっこ良くは無い。

当時、プリンス自動車荻窪工場の近くに住んでいたが、空き地や広っぱも多々あり、街道から外れると車通りの殆ど無い畑に囲まれた道路がたくさんあった。

もちろんこの時代でも舗装されていたところが東京23区内(笑)

表通りは出てはいけないという暗黙のルールはあったけど、そこはその場の雰囲気というか…(笑)

自分が行きたい方向にペダルをこいで行く事でどんどん行動半径が広がった。

で、自分でも何処に行くつもりなのか考えもせず、気が付けば知らない街に来てしまったり。

 

そこから生れ故郷の鉱山町に転校し、自転車のあまりのボロさと坂道や砂利道だらけの環境に、ちょっと放浪癖はお預け状態だった。

中学生になり、急に身長が伸び体格も良くなったニャンコにもうあの自転車は無理!

少年漫画雑誌や学習雑誌の広告に、変速機付きのサイクリング車が載り始め、欲しいなぁ…と思い続けていたニャンコ少年。

ある日学校から帰ると、玄関奥の畳の間に、新聞紙を敷いて、その上にブリジストンのサイクリング車が鎮座してるではありませんか!!

ニャンコの人生でこれが一番のサプライズだったかも(^_^)v

変速は4段で、ハンドルは流行のドロップ型ではなく、今で言うとMTBのようなセミフラット型。(実際、田舎道ではこのハンドルが正解だった)

 

舞い上がったニャンコ少年が、またもや放浪癖に走ったのは言うまでもない。

学校から帰ると自転車にまたがって、いろんな道を走ってみる。ただそれだけで楽しくて楽しくて。

中3で東京に再度転校して来た時も、この自転車であちこち走り回ったけど、高校に入るとついにバイクという悪魔の囁きが聞こえ出す。

そりゃ自転車よりはるかに遠くあちこちに行けるし、長い登り坂も漕がなくていい。

ん~、乗りたい!

 

当時それほどバイクは悪者扱いされていなかった。悪いのは一部のバイク乗りで、殆どのライダーはそこそこ法規を守り、故意に他人に不快な思いをさせたりしなかったから。

親を口説き落として自動二輪(国道を堂々と60km/hで走れる)に乗れた時は、もう日本中がニャンコの手の中にあるような気持ちになったっけ。

高校がすぐ近くだったので、授業が終わると飛んで帰って来たニャンコは

「ちょっと出て来る」

と母に言い残してバイクで飛び出したものだった。

 

そのちょっとがくせものでと後々母に言われたものだけど、週末なんかは夜に突然福島の叔母の所から「ニャンコが来た」と電話があったり、「仙台の叔父の住所はどこだっけ」と仙台の交番前の公衆電話から電話するニャンコだったり。

晩御飯食べて、夜になってから(てか、丑三つ時?)エンジンの音を聞いた母が、夜が明けて昼近くに帰って来たバイク…いや、ニャンコに、「どこに行ったの? 行き先位ちゃんと言って行きなさい」と苦情を。

「あ、急に思い立って富士山の5合目まで行って来た」

と答えて呆れられ、この稿の題の通りの返事が返って来た。

それ以来、母にはず~っとそう思われて来た。けっこう心配してたらしい。

う~ん、心配してくれて感謝かな。

今年の秋は母の三回忌と今年が二十三回忌だった父との合同法要を秋田でします。

なんだかんだ言って、自転車もバイクも許可して買ってくれた両親があってのニャンコ少年だった。

ありがたいな