ニャンGの故郷は秋田県のK町ですが、実際そこでの生活は、この世に生まれ出てから2年少々までと、小学3年生から中学2年生終わりまでの6年間だけです。
3歳未満の町の記憶は殆んど無くて、実際の記憶や思い出は小3からの6年間に集約されます。
それに比べ、父の東京勤務で2歳から小2の終わりまでの6年間が杉並区現在の桃井の社宅に住み、中3から22歳の8年間を杉並区本天沼の社宅に住んだので、実際には東京生活の方が主でした。
桃井の家のすぐ近くを片側2車線、歩道完備の立派な幹線道路がありました。
ニャンコが初めて通りの名前を覚えたのが、その青梅街道でした。
西荻窪駅に行く時や幼稚園の通園時に、その広い道路を横断するのですが小学生になるまでは道路向こうに行くことはけっこうな冒険でした(笑)
祖母と阿佐ヶ谷の成田東に住む祖母の姪?の所まで遊びに行く時は、青梅街道に出てバスで荻窪駅に。そして、当時は地下鉄丸ノ内線が延びて無かったので新宿行都電杉並線に乗り換えておそらく西馬橋で降りたのかな‥
ニャンコが乗った時の都電は荻窪駅北口から出ていて、青梅街道が国鉄中央線を越える陸橋部をモーターを唸らせて越えて行ったようです。
井草八幡宮もニャンコの住まいからは青梅街道の向こう側。
青梅街道沿いの参道近くに青果市場があって、こっそり入り込んで台車に乗ったり引張りまわして遊んで(たまに見つかって)怒られるのは小学生になってからだったかな(^^ゞ
あ~、ヤマハの音楽教室での発表会で同級生の女の子とピアノの連弾を演奏(って程ではないけど)したのも青梅街道沿いの杉並公会堂でした。
社宅のお隣の奥さんが免許取って中古のダットサンを購入。記憶によるとおそらく112型。(ドアヒンジが外に出ていた気がするので)
ドライブに連れて行ってくれるとの誘い(単なる練習に付き合わされた?)に乗って、狭山湖にあったユネスコ村まで行ったのも、今度は青梅街道を西方向にどんどん走って行ったんですね。ってか、ホントはパワーが無くてノタクタと(^^;)
オマケに途中でガス欠でエンコして、奥さんがガソリンスタンドまで走って行ったのが一番の思い出ですが(笑)
その頃のニャンコの頭の中の地図は、この青梅街道が(知ってる範囲ですが)基準でした(*^^)v
青梅街道とは
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%A2%85%E8%A1%97%E9%81%93
ニャンGのイメージでは新宿靖国通りの西端から、田無、瑞穂、青梅、丹波、柳沢峠を越えて、塩山、勝沼の旧甲州街道出合いまでとなってます。
ニャンコの青梅街道行動半径が拡がるのは二度目の東京生活が始まってからでした。