ひまなので‥1

ふと秋田弁で思う事を少し
方言と言えば東日本ではまず東北弁という括りがあって、そこから会津訛り常磐訛り山形弁宮城弁、南部訛りに津軽弁、そして我が秋田弁等さまざまに小別れしているようです。確かに互いに通じない東北弁も多いですから(笑)
他の方言はニャンコの体験外なのであくまでも秋田の方言について思う事を。
さて、秋田弁と言っても秋田県は結構広くて、実際には3つの大まかな区域に分かれていると思います。
県北、県央、県南です。
この別れ方は秋田の地方紙の地域版にも続いていて、元々は秋田県の文化圏が3つに分かれていたからなのでしょう。
秋田県に詳しい方はとっくにご承知のように、県には3本の大きな川が流れています。
県北と言われているのが米代川流域の文化経済圏。
鹿角、大館、鷹巣、阿仁、能代能代は中央圏だと思ってる?)に白神地区です。
県央と言うのが雄物川流域のかなり広い区域。
秋田市は勿論大仙、泉北、横手に湯沢というもはや県南ではと思える所まで。
そして県南はちょっと特異な岩城を含め由利本荘を中心とした子吉川流域です。
昔々の物資の流通や人の行き来は大河に沿って行われたと想像すれば、この区分けは納得でしょうね。
県南の由利地方は旧秋田藩では無かったので、よけいに文化が違ったかも。
で、鹿角の言葉と秋田市の言葉も同じ秋田弁ですが微妙に使い廻しや言葉そのものも違っると言われてます(らしい?)
人の往来が近場のみだった頃はさらにはっきりと分かれていたのかな。
実際に元の秋田市も古代は土崎の湊が中心で、男鹿(船川)や新屋と共に浜言葉が中心で、けっこう荒っぽかったと言う方も多い様です。
ここに茨城から佐竹の殿様が配置換えで左遷されて来た事で文化の中心が秋田市久保田に移り多くの変化を生み出したのが江戸時代。
湊中心ではなくなった経済や文化。それも異文化との出会いで言葉自体も柔らかい秋田弁に変化して来たのかも。実際佐竹分家等が雄物川流域に散らばった事で県央の秋田弁がおそらく一番柔らかくなったのでしょう。
我が生まれ故郷の県北は、林業で栄えた阿仁鷹巣そしてその出荷基地や北前船で財を成した能代とはちょっと違う成り立ちが。
八幡平や十和田湖に接していた鹿角地区(旧鹿角郡)は秋田藩のものではありませんでした。ひと山越えた南部藩の領地だったんですね。

戊辰戦争で東北の他の藩との約定を違え官軍に就いたのでお情けで明治政府から授かった?という見方も)
なので、花輪の奥の昔からの農家の方々の言葉には南部訛りが残っています。
尾去沢、小坂、花岡とある時代に栄えた日本屈指の鉱山があった県北の外れの地には、南部衆、津軽衆、勿論秋田衆が大勢入り込んでそれぞれの文化がごちゃ混ぜの言葉や風習が出来上がってしまったように思います。
その小坂町で覚えた言葉を、東京での学業を終えて就職した秋田市で、当然なんでも通じるつもりでいたニャンコは、初めて聞く言葉の多さに右往左往させられたものでした。
だったら無理せずに標準語で喋れば良かったのですが、諸先輩型の前でそんな話し方をしたら「なにえふりこいでらのや!」「め、おらがたばかにしでらんだか!」とごしゃかれるような職場でした(笑)
その時、秋田弁は一つではないと知ったニャンコです。